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17日より開催の「間道の帯」展
皆様のお手元にお知らせは届きましたでしょうか?

間道、漢島、漢渡・・・
名前の由来は、名物裂として取り上げられた縞織物が、
主として中国広東地方で産出された
絹織物であったことと言われています。
渋みのある異国的な趣が茶人に珍重され、
持主や由来などにより望月、船越、日野、吉野などと
様々な呼び名があります。

元来、間は混るの意であり、道は筋、縞の意。
室町時代後半から渡来した外国産の絹や木綿の縞織物、
ときには格子柄の名物裂 (めいぶつぎれ)をいいます。
インドや東南アジア産の染織品が中心で、
茶器の袋などに用いられ、
この語は江戸時代に入って伊勢、河内、大和などで織られた
国産の衣料用木綿縞と区別して使われるようになりました。

吉野間道は、京都の豪商 灰屋紹益が
寛永の三大名妓、吉野太夫(※)に贈ったと言われる
南蛮渡来の縞織物で、
名物裂の一種「吉野間道裂」として受け継がれる
伝統ある縞柄です。

催事中は様々な間道帯をご用意しております。
藤山千春さんの吉野間道の帯や
隼人紬さんの吉野格子の帯などなど
素晴らしい帯の数々をこの機会に是非ご覧ください。

-おまけ-
吉野太夫(よしのだゆう)
江戸時代、京都の遊廓(ゆうかく)島原の遊女。
吉野太夫を名のった者は時代を前後して数人以上みられ、
そのうち灰屋紹益(しょうえき)(佐野重孝しげたか)
の妻になった者は有名。
彼女は1606年(慶長11)3月、京都・大仏に生まれる。
六条柳町の下ノ町の傾城(けいせい)
屋林与次兵衛家の太夫となり、名声を博した。
1643年(寛永20)8月に死去し、
その墓は京都・鷹峯(たかがみね)の常照寺にある。
なお、彼女の好んだ、茶席にみられる丸窓の吉野窓、
名物裂(めいぶつぎれ)の一つである吉野間道(かんとう)に
その名が残っている。[芳井敬郎]
日本大百科全書(ニッポニカ)より